ヴァルヴ レイヴ 2 199


‌ 手綱を握る指には、すでに感覚がなかった。
‌ 北へと駆け続けて五日、この辺りの平原はまだ雪に覆われ、風は真冬と変わらぬ冷たさをはらんでいる。
‌ 気ばかりが()いて、目的地はいつまでも見えてこなかった。走れば走るほどその場所が遠のいていくかのような錯覚に襲われたのも、一度や二度ではなかった。どこまでも変わらぬ雪を被った草原(くさはら)と青空を、自身が愛した故郷の光景を、シリンは恨めしく眺めた。
‌ 胸元に目を落とす。
‌ 揺れる馬上でも、赤子は泣き声を上げることなく眠っていた。口元をむにむにと動かしているから、母の乳を吸う夢でも見ているのかもしれない。
‌ 母、と思った胸がつかれたように痛んだ。ついにこの子は乳を一度も吸わぬまま、母と別れた。
‌ シリンは吹く風から守るように赤子を抱え直し、前を向いた。
‌ 一刻も早く、故郷へ。風の中を突き抜けるように、シリンは(せん)(うん)を走らせた。
‌ 目指すのは、アルタナの冬営地だ。遊牧民たちは皆、季節によって居地を変える。夏は家畜のために草の豊かな平原に居を構えるが、冬は風と寒さを避けるため、山の(ふもと)へ移動する。寒さの厳しい今はまだ、山の近くにいるはずだ。山と言っても、壁のごとき(はく)(れい)(さん)に比すれば丘と呼んだ方が相応しいくらいの低山だ。見当違いな方角に馬を走らせれば、その慎ましやかな山影は永久に見えてこないだろう。
‌ 頼りになるのは太陽と星の位置、わずかに散らばる岩場、そしてシリン自身の記憶のみだった。不安がないといえば嘘になる。
‌ だから目の前に覚えのある帽子型の奇岩が現われ、その奥に沢が見えてきた時には、安堵で全身の力が抜けそうになった。どちらも冬営地の目印となるものだった。あとは沢を上流へと辿っていけば、山の麓へと連れて行かれるはずだ。シリンは「もうじきだ」と懐の赤子と茜雲に声をかけた。
‌ 沢は清涼に流れ、すでに凍ってはいなかった。手綱を引き、流水を口に含むと、冷たさが歯に染みた。
‌ しかし喉を潤したのも束の間、シリンの耳はかすかな悲鳴をとらえた。反射的に手綱を取り、声のした方──上流へと駆ける。
‌ 最初に見えたのは、赤い点だった。やがてそれが、雪の上で人の姿に変わる。
‌ 赤は、少女の長い髪だった。二頭の狼が羊の群れに襲い掛かり、その傍らで赤毛の娘が羊番の杖を振り回している。
‌ 茜雲の(ひづめ)が、雪を散らした。蹄の音に気付いたのか、少女が動きを止めた。
‌ 弓に矢をつがえる。
‌「動くな!」
‌ シリンが叫ぶと、少女はその場に尻もちをついた。
‌ 矢が飛ぶと、羊に飛びかかっていた狼が高い声を上げて雪の上に落ちた。矢は(もも)に命中していた。
‌ 連れの狼がこちらを振り返り、(うな)り声を上げる。
()(かく)のため、もう一本矢を飛ばした。それは狼の毛並みを(かす)め、地面に突き刺さった。彼らは鼻先を見交わし、せっかくの獲物を惜しむような眼をしながらも、上流へ走り去っていった。
‌ あとには、すでに喉を食い破られた羊が、雪の上でもがく音だけが残った。
‌ シリンは茜雲を降り、苦しむ羊の喉元を短刀で掻き切った。羊は地にくずおれて動かなくなり、流れ出た鮮血が雪を溶かした。
‌ 振り返ると、少女が雪に手をついたままびくりと震えた。長い赤毛が、雪原でひどく目立つ。草原の女にしては肌が白く、シリンよりいくつか年下の十五、六に見えた。
‌ 少女の(おび)えた顔を見て、自分が(らん)の男の格好をしていることを思い出した。
‌「怖がらなくていいわ。こんな格好をしてるけど、私は草原の人間で、女だから」
‌ 髪と揃いの赤みがかった少女の目が、まじまじとシリンの顔を見た。シリンの言葉が真実とわかったのだろう、こわばっていた顔がいくぶん(ゆる)み、掠れた声で言った。
‌「助けてくれて、ありがとう」
‌ 少女の言葉には、西の(なま)りが聞き取れた。この辺りをうろついているとなればアルタナの女に違いないが、見覚えがない。最近嫁いできた娘だろうか。
‌「それはいいの。でも、この辺りは狼の(すみ)()よ。一人で羊を連れてうろつくなんて、襲ってくれと言っているようなものだわ。おかげで羊が一頭死んでしまった」
‌ 少女は唇を噛んだ。
‌「あなたの夫は何も教えてくれなかったの? ずいぶん(ひど)い話ね」
‌ どの言葉に対しての否定なのか、少女は首を横に振った。
‌「言い過ぎたわ、ごめんなさい。それより、アルタナの冬営地はもう近い? 私、わけあって濫に行っていたのだけど、帰ってきたの。案内を頼めるかしら」
‌ もちろん、と少女は何度も頷いた。
‌ その時、懐で赤子が泣き出した。少女が驚いたようにシリンの胸元を見る。それまでどれだけ揺れてもおとなしくしていた赤子にも、旅の終わりが近いとわかったのだろうか。
‌「帰ったら、まずは誰かから乳を分けてもらおうね」
‌ そう言って額に口付けると、少女が腰に()げた革袋を差し出した。
‌「山羊の乳です。その子に」
‌ くれるということだろう、少女はシリンの手にそれを押し付けた。ありがたく受け取り、手巾に染ませて赤子に吸わせた。赤子は力強く吸い付き、頬を赤くして乳を飲み、やがて気が済んだのか再び眠りに落ちた。
‌ ほっと息を吐くと、足元が揺れた。この数日間はろくに眠ってもいなかったことを、今さらになって思い出す。赤子をひしと強く抱き、茜雲の背に(すが)りついた記憶を最後に、シリンの意識は遠のいていった。
‌ 蒼天に、少女が上げた高い声が吸い込まれていった。

‌ 目覚めた時、鼻孔は懐かしい匂いに満たされていた。
‌ 今がいつで、なぜ自分が眠っていたのか思い出せなかった。天窓から漏れ入る陽は、すでに高いように思えた。寝坊したのだろうか。ナフィーサと母様に怒られてしまう、と起き上がろうとしたが、体がひどく重かった。
‌「よかった、目が覚めたんですね」
‌ シリンの顔を覗き込んだのは、覚えのない顔だった。どこかで会った気はするが、誰なのか思い出せない。鼻に馴染む家畜と土の入り混じった匂いに少女の顔は溶け込まず、馬の群れにぽつねんと混じった(れい)(よう)のように浮いていた。
‌ シリンは反射的に腕を伸ばし、少女の喉元を掴んだ。
‌「赤子は」
‌ 少女の目は驚きに見開かれ、手にしていた手巾を取り落とした。
‌「あの子はどこ」
‌ 指が少女の首筋に沈む。自分でそう言いながら、あの子って誰のことだろうとぼんやりと思った。
‌ 少女は手を振り払おうと首元を掻いたが、シリンの指が剥がれることはなかった。少女は声もなく、あそこ、とユルタの反対側に置かれた編み籠を指差す。
‌ シリンはぱっと手を放し、寝台から転がり落ちるように駆け寄った。
‌ 窮屈そうなほどしっかりと布でくるまれた赤子は、すうすうと安らかな寝息を立てていた。腹に触れると、シリンが眠っている間にまた乳をもらったのか、ぽっこりと平和な曲線を描いていた。
‌ 赤子を抱き上げ、その乳臭い匂いで胸を満たしてようやく、少女が誰なのかと、自分の置かれた状況とを思い出す。
‌ 母もナフィーサも、ここにはいない。いるわけがない。ユルタに敷き詰められた(じゅう)(たん)の模様が、目の中で揺れる。
‌ その時、少女の()き込む音が耳に入った。シリンははっとして振り返り、這うように近付いてその背をさすった。
‌「ごめんなさい、私、なんてことを」
‌少女は咳き込みながらも「気にしなくていい」というように大きく首を横に振った。
‌「本当に悪かったわ。あなたが私と、あの子をここまで連れてきてくれたのよね?」
‌ 少女は息を整えながら頷いた。
‌ ここが故郷のユルタの中であることは間違いなかった。しかしかつて暮らしていた父のユルタではなく、また見知った村人のそれでもなかった。ユルタはみな造りも調度も似通っているが、そこにはどうしても住人の色が(にじ)む。移動のため取り壊し再建したとしても、不思議とその色が()せることはない。
‌ しかしこのユルタには、シリンの知る匂いがなかった。
‌ 名前は、と訊くと「カウラ」と掠れた声で答えがあった。小さな咳を最後に一つして、カウラと名乗った少女は静かになった。赤茶けた色をした瞳が、シリンを見る。
‌「あの人は、一緒ではないのですか」
‌「あの人?」
‌ 予想外の問いかけに首を傾げると、カウラは困ったように唇を舐めた。
‌「ナランです。濫で会いませんでしたか?」
‌ シリンは凍り付いた。あの人、と弟を呼ぶ声音で、このカウラという娘が誰であるのかに思い至ったからだ。
‌「あの人、すぐに帰ると言ったんです。だからいつ帰ってもいいように、寝台も毎日整えているのに」
‌ 胸に暗澹たるものが染み出していく。
‌ アルタナに帰り着けば、すべてを説明しなくてはならないとわかっていた。
‌ でも、だけど、よりによって、最初にこの娘に言わなくてはならないのか。
‌ あなたの夫は二度とここへは帰らないと。私が殺してしまったから、と。
‌ なぜ死んだ、とナランのまだ細かった肩を揺すって問い詰めたくなる。殺したのは自分で、その背に矢を射た感触も鮮明だというのに。
‌「ナランは帰らないわ」
‌ カウラの表情は変わらなかったが、目の(りん)(かく)が揺れるのがわかった。
‌「なぜ?」
‌ 少女は、すでに答えを知っているかのような暗い目をした。その視線は、シリンの胸元の狼牙の首飾りに向けられていた。
‌ ごめんなさい、と言いかけてシリンは口を(つぐ)んだ。謝ってどうなる。謝罪の言葉はただ、この嫁いできてすぐに()()となった娘ではなく、自分自身を楽にするためのものだ。
‌ ぐ、と奥歯を噛みしめる。
‌「弟は、私が殺した」
‌ その時、入り口の(たれ)(ぬの)がまくり上げられ、光がユルタに差し込んだ。カウラの瞳の表面が、感情を映し出すことなく白く光った。
‌「シリン、起きたのか」
‌ 戸口に現れた影がユルタの中に入ってくると、よく見知った顔になった。
‌ ザナトだった。シリンの三つ年下の従弟だ。シリンがアルタナを出た時よりずっと精悍な、青年に近付いた顔つきになっていた。それでも昔馴染みの顔を見てようやく、故郷に帰ってきたのだという感慨が押し寄せた。しかしその感慨に身を委ねることはできなかった。
‌ おそらくザナトとは、これから争うことになる。
‌ ザナトはシリンの正面に座った。「おかえり」も「ただいま」もこの場にふさわしくないのが二人ともわかっていたから、黙り込むことしかできなかった。ザナトの視線が、ちらちらと腕に抱いた赤子に向けられた。
‌「これは、私の子だ」
‌ 私の子よ、と言いかけたのを喉元で止め、男のような言葉で答えた。
‌ ザナトの黒々としたまつげが、震えたように見えた。
‌「本当に?」
‌ ザナトが覗き込むと、赤子はぱちっと緑色の目を開いた。
‌「本当だ」
‌ ザナトは大きく息を吐いた。
‌「シリンお前、なんで帰ってきた? 濫で何があった。そんでその首飾りは、どういうことだ」
‌ シリンは黙した。いずれ話さなくてはならないが、魂が抜けたように座り込んだカウラに、ザナトのついでのような形で真実を伝えたくはなかった。
‌ ザナトは二度目の溜息を吐いた。             
‌「まあ、いい。親父がお前を呼んでる。そこで話は聞こう」
‌ シリンが頷いて立ち上がると、くんと袖を引かれた。
‌ 見ると、カウラが呆けた顔をしながらも手を広げていた。赤子を預けていけということだろう。シリンは黙って首を横に振ったが、カウラは腕を下げなかった。
‌「シリン、赤ん坊は置いてけ。話の最中で泣いたら困るだろ。どうせ楽しい話にゃならねえんだ」
‌ そうだ、とばかりにカウラも頷いた。
‌ それでもシリンが動かずにいると、ザナトが赤子に手を伸ばしたので、(とっ)()に背を向けた。
‌「おい、なんだよ。『お前の子』に俺が何かするとでも思ってんのか?」
‌ 違う、と胸中で思った。シリンの子に、ザナトはもちろん何もしないだろう。だけど『濫人の子』にはどうだかわからない。
‌ザナトは、ナランと同じように濫人を憎んでいた。殺されたシドリは、ザナトの無二の友だったからだ。
‌ 揉み合っていると、赤子が声を上げて泣き始めた。
‌「ほら、言わんこっちゃねえ」
‌「ザナトが引っ張るからだ」
‌ 腕の中で揺すってみたが、泣き声はますます激しくなるばかりだった。
‌ カウラの手が伸びてきて、赤子を(すく)いとる。その胸に抱かれ、ユルタの中を二周もする内に赤子は泣き止んだ。
‌「ほら。大丈夫だから、行ってください」
‌ カウラは有無をいわせぬ顔でそう言った。

‌ 連れて行かれたのは、父のユルタだった。その最奥に、ザナトの父でシリンの叔父であるハルガンが今は座している。父のユルタはすでに叔父の匂いに満たされており、不思議なほど懐かしさを感じなかった。
‌ ハルガンは父の弟にあたるが、面差しはあまり似ていない。今はそれが有難かった。その叔父の眉間に、深い皺が幾本も走っていた。
‌「手放しに、よう戻ったとは言えんな」
‌ すでにハルガンとザナト、車座になった村の男たちの前で、事の(てん)(まつ)は大方話し終えていた。
‌ ハルガンはぐっと馬乳酒を呑み干した。シリンは叔父の喉が浮き沈みするのを、黙って眺めた。
‌「だが、お前が無事だったことは喜ばしく思う。お前の父母も、きっとそうだろう」
‌ ハルガン、と(とが)めるような声が上がった。その声音の鋭さは、(いたわ)りの言葉よりもずっと、シリンを安堵させた。これこそ、アルタナに帰れば自分を待ち受けるだろうと予想した声だったからだ。
‌「頭から信じるのか、こんな馬鹿げた話を?」
‌「そうではない。信じるかどうかは、これから調べてみての話だ。だが事実ナランは帰らず、シリンが戻った」
‌ 溜息と舌打ち、疑念の声があちこちから聞こえた。白けた空気がユルタを満たす。
‌ だから俺はナランを止めたのに、と誰かがぼやいた。
‌「仇討ちで、自分が身内に殺されてどうするよ」
‌「こんな話、余所の連中にはとても聞かせられねえな」
‌「濫の皇帝は、報復にくるんじゃねえか?」
‌ ハルガンは男たちに視線を走らせ、彼らを黙らせた。
‌「シリン、あまり思い詰めるな。私はお前が間違ったことをしたとは思わん。ナランのことは仕方がなかった。あやつの未熟さが、己を殺したのだ」
‌ シリンが否定する隙を与えず、ハルガンは穏やかな声音で続けた。
‌「今はゆっくり体を休めて、連れ帰った赤子を育てるのに専念するといい」
‌ ザナトが横目で父親を見た。視線には気付いているだろうが、ハルガンがそれに応じることはなかった。
‌「バヤルのユルタは私が使っているが、ナランの嫁はじき故郷に帰すことになろう。お前はそこを使えばいい」
‌ シリンはハルガンの目を見た。その目は、天窓から差し込む陽で鈍く光っていた。父と同じ(かまど)の灰に似た色をした瞳は、当然だが父とは異なる男の目だった。
‌「狼牙の首飾りは、私に預けなさい。お前には休息が必要だ」
‌ シリンは天窓を見上げ、眩しさに目を閉じた。光の(ざん)()が、まぶたの裏の闇で踊る。それも消えてしまうと、薄闇だけが眼裏(まなうら)に残った。
‌ シリンは目を開き、ハルガンに向かって微笑んだ。
‌「いいえ、叔父上。それには及びません。私は狼牙を手放しませんし、休息も不要です」
‌ シリン、とザナトが声を上げたが、シリンは黙殺した。
‌ ハルガンは静かに首を横に振った。
‌「シリン。狼牙の首飾りを外さぬという、その意味がわかっているのか?」
‌「もちろんです。叔父上は、私をそれほど愚かな娘とお思いか?」
‌ シリンは立ち上がってハルガンに背を向け、ユルタに集った男たちを睨むように見渡した。
‌「お前たちにも言っておく。父とナランを継いで長となるのは、私だ」
‌ 男たちが反発や戸惑いの声を上げる間もなく、シリンはハルガンを振り返った。
‌「叔父上。私は、狼狩りの開催を要求します」

‌「シリン」
‌ 夕暮れにユルタを訪れたのはザナトだった。右手には兎を提げている。狩ったばかりらしく、薄く血の臭いがした。
‌ おもてに出て小刀を渡すと、ザナトはどさりと地べたに座り、皮を剝ぎ始めた。
‌「お前、どういうつもりだ」
‌「どうって?」
‌ シリンは兎がただの肉塊に姿を変えていくのを眺めながら訊ねた。羊たちが夜を前にさかんに鳴き交わすのが、遠く聞こえた。
‌「狼狩りのことに決まってるだろ」
‌ 狼狩りは、アルタナに伝わる儀礼だ。先代が後継を指名しないまま死んだ時にのみ行われる。族長の血縁の中で最も早く狼を狩ってきた者がその座を勝ち得るが、長く催されることなく途絶えていた。その必要がなかったせいもあるが、なにより危険だからだ。継承のための狼狩りは単独で行うと定められており、他者の手を借りることが許されない。過去に狼狩りに挑み、命を落とした者は一人や二人ではない。
‌「あんな古臭い儀式、今さら持ち出すなんざ何考えてる」
‌ザナトが兎の血抜きを始めようとしたところで、赤子を抱いたカウラがユルタから顔を出した。ザナトはカウラが差し出した皮袋を兎の首に当て、流れる血を受けた。カウラはそのままユルタに戻ろうとしたが、シリンは引き留めた。カウラは赤子を膝に抱え、隣に腰を下ろした。赤子はこの短い間にカウラになついたらしく、彼女の赤毛を握ったり引っ張ったりしていた。
‌「古臭い儀式でもやって見せないと、皆納得しないだろう。私が族長となることに」
‌「だからなんで、そんなことしてまでお前が族長にならないといけないんだ?」
‌ ザナトが立ち上がると、手元から丸裸になった兎が落ちた。シリンは兎を拾いあげて砂を払い、ザナトに代わって肉を(さば)き始めた。
‌「なあおい、聞けよ。別に余計なことしなくたっていいじゃねえか」
‌「よくないから、お前の言う余計なこととやらをしようとしてる」
‌「どうしてだよ? 息子が死んだら、弟が跡を継ぐ。普通のことじゃねえか。なんで女のお前がその話に割り込んでくる? それに、さっきから何だよその喋り方。南じゃ、女も皆そんな風に話すのか?」
‌ シリンは手を止めて立ち上がり、ザナトと視線を交わした。頭一つ分小さいシリンが見上げる形になった。
‌「ナランの財、つまり父様の遺したものはすべて私が引き継ぐ。それで叔父上が長となるなら、アルタナは割れる」
‌ はあっとザナトは溜息を吐いた。アルタナへ帰って来てから、この従弟が息を吐くのを聞くのはもう何度目になるだろうか。
‌「親父が族長になったら、俺が跡を継ぐ。親父ももういい歳だし、そんなに先の話じゃねえだろうよ。そんで俺とお前が結婚でもすりゃ、アルタナの財と族長の座はまた同じ家の中におさまる。それでいいじゃねえか」
‌ シリンは黙ってザナトを睨んだ。ザナトはシリンから目を逸らし、首元を掻いた。
‌「俺はな、もともと思ってたんだ。シドリがナフィーサと婚約した時、この分ならきっとバヤルの伯父貴は俺にお前との婚約を勧めるに違いないって。なのに結局二人とも濫にやっちまって、しまいにこの様だ」
‌ シリンは兎の血がついた小刀をザナトに向けた。
‌「悪いが、その提案はお断りだ」
‌「俺だって、自分がろくでもないこと言ってんのはわかってる。でもお前、現実的に考えてみろよ。この先どうするんだ? 夫の()()もなしで、この赤ん坊をお前一人で育てるのか? 万一望みどおりお前が族長になったとして、誰がこの子の面倒を見るんだよ。族長が赤ん坊背負って戦場に出るってのか?」
‌「この子は」
‌ 黙って二人の応酬を聞いていたカウラが、初めて口を開いた。
‌「私が見ます。この人が族長になるのなら、留守は私が預かる」
‌「カウラまで何を言い出すんだ? お前はまだ嫁いできて間もないし、故郷にじき帰ることになる。そうだろ?」
‌ ナランはもう戻らないんだ、とザナトは吐き出すように言った。
‌ カウラは首を横に振った。赤い陽は地平線に沈もうとしていたが、その目に頑固な意志の光が宿っているのが見えた。
‌「帰りません。私はここにいます」
‌ カウラはその後ザナトが何を言っても口を閉ざし、兎肉と赤子を両脇に抱えてユルタに引っ込んでしまった。やがて煙突から煙が上がり、肉の焼ける香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。三人は食卓を共にしたが、心楽しいものにはならなかった。ザナトは腿を一つ食べただけで、酒もろくに飲まずに帰ってしまった。
‌ 沈黙と火の爆ぜる音だけが、シリンとカウラの間にあった。
‌ カウラは皿に残された骨をおもてに向かって投げた。はあはあと犬の吐息が聞こえ、やがて骨を噛み砕く音に変わった。垂布の隙間から頭だけ出して覗くと、夜の闇の中にあってもなお黒い犬が、尻尾を振り立てていた。
‌「私の犬です。故郷のバクラムから連れてきました」
‌ バクラム。白嶺山の麓に位置する都市の名だ。ならばこの娘は(きっ)(すい)の遊牧民ではない。その肌の白さにも得心がいく。
‌「濫で何があったのか、聞かせてくれますか」
‌ 後ろ頭でその言葉を聞いた。ユルタに首を戻すと、敬語はいい、とシリンは首を横に振った。本来ならカウラは義妹になるはずだったが、すでにナランはいないのだ。
‌ カウラはひとつ頷いた。
‌「村の人から、事情は聞いたわ。でも、私はあなたに話してほしい」
‌ シリンは炎を見つめながら、村の男たちに語ったのと同じ話を繰り返した。しかし彼らに話した時よりもずっと、言葉を選んだ。
‌ カウラは表情一つ変えずに聞き入っていた。カウラが声も荒げず、涙も流さないことは有難かったが、居心地が悪くもあった。
‌ シリンが語り終えると、カウラは静かに膝の赤子を揺らした。
‌なんて言っていいかわからないけど、と赤子に目を落としたままつぶやく。
‌「ずいぶん、酷いことがあったのね」
‌ カウラは赤子の頬を指の腹で撫でた。シリンは続く言葉を待ったが、その先がカウラの口から発されることはなかった。
‌「責めないのか?」
‌ カウラの指が、赤子の柔肌の上でぴくりと震えて止まった。
‌「殺したんだ、私があなたの夫を」
‌ それなのにどうしてここに残ろうとする、と尋ねる前に「私は」とカウラが声を上げた。
‌「妾の子だった。バクラムの長の弟の」
‌ 顔を上げたカウラと目が合う。
‌「ほかの姉妹や従姉妹たちは、誰も遊牧民の元へ嫁ぎたがらなかった。一生家畜に囲まれて暮らすのは御免だと言って。気を悪くしたら、ごめんなさい」
‌ シリンは黙って首を横に振った。カウラの故郷バクラムは、豊かな水源を頼りに都市を形成し、その地に定住している。定住民は、常に家畜を追い、時に略奪に手を染める遊牧民を野蛮だと嫌う。遊牧民は、定住民をろくに戦う術も知らない軟弱者と嗤う。それでも両者は生活のため交易を行い、時に婚姻する。カウラの姉妹の言葉は、定住民にとっては当たり前のものだろう。
‌「だから私が選ばれた。でも私は、嫌ではなかった。すでに母も死んで、家では肩身が狭かったから。馬も羊も嫌いではないし、堂々と自分の家だと言える場所が持てるなら、どこであろうと構わなかった」
‌ だから長旅も苦にはならなかった、とカウラは述懐した。シリンは(せつ)()、ナフィーサと辿(たど)った濫への旅路を想い、すぐにその記憶を頭の外へと追い出した。
‌「婚礼の席であの人に初めて会って、思ったよりずっと若いどころか年下だったから驚いた。アルタナの族長とだけ聞いていたから、(ひげ)をたくわえた大男に違いないと思っていたの」
‌ カウラは口元を緩めた。この表情の乏しい娘にしてみたら、たぶん笑ったのだろう。
‌「ナランは急に嫁いできた私にどう接していいかわからなかったみたいだけど、優しかった。婚礼の宴に出たご馳走を、こっそりより分けて私の分を隠しておいてくれた。皆が帰ってから、二人で食べた」
‌ シリンとナランがまだほんの子供だった頃、まったく同じことをした。村であった婚礼の席から豪勢な料理をこっそり二人でかすめた。ユルタの陰で笑いながら、大人に見つからないように急いで食べた。
‌ ナランはカウラに料理を勧めながら、あの日のことを思い出しただろうか。
‌「肉は冷めて固くなってしまっていたけれど、美味しかった。お腹が空いていたから、手も口も脂まみれにして夢中で食べた。肉を噛みしだきながら、私は大丈夫だと、そう思った。ここでちゃんとやっていけると」
‌ カウラは赤子を胸に引き寄せた。
‌「ナランが死んで、悲しいとは思う。だけど私はあなたを恨めない。恨むには、時間が足りなかった。私たちは夫婦だけど、まだ他人だった。あなたを憎めるほどの時間を与えてくれないまま、あの人は行ってしまった」
‌ カウラは灰の中で燃え残った火種に目を落とした。私は悪い妻だから、と言葉を灰に紛れ込まそうとするかのようにつぶやく。
‌「あの人の死を(いた)むよりも、落胆して、怒っている。せっかく居場所を手に入れたと思ったのに、どうしてそれをなかったことにするの、どうしてこんな風にすぐに放り出すのって。ナランの死そのものではなくて、自分の不幸にばかり怒っている」
‌ だから、とカウラは目を上げてシリンの顔を見た。
‌「私に謝らなくていい。あなたの方がずっと傷ついて、苦しんでる。あなたは責めてほしいのかもしれないけど、私にその役目は担えない」
‌ でも、と二人の女の声が重なった。視線が宙でかち合う。先に続きを口にしたのはカウラだった。
‌「私がそう言ったところで気がおさまらないのなら、勝ってほしい。狼狩りに勝ったら、あなたが族長になるんでしょう? それなら勝って、ここにいていいと私に言ってほしい」
‌ カウラの赤みがかった目が、(いど)むようにシリンを見た。
‌ たとえシリンが勝たなくとも、誰かほかのアルタナの男、たとえばザナトにもう一度嫁げば、カウラは故郷に帰らずに済むだろう。けれどこの娘が求めているのは、そんな言葉でも未来でもないとわかっていた。
‌「わかった。必ず勝利すると約束しよう。もとより、そのつもりだ」

‌ それからハルガンと幾度かの話し合い(とは名ばかりで、シリンは叔父が(なだ)めようと、時に(おど)そうとも『狼牙は渡さない、狼狩りで負けたら返上する』と繰り返しただけだった)を経て、狼狩りの開催が認められた。
‌「私は参加しない。もう、一人で狼と格闘できるような歳ではないからな」
‌ 代わりに息子が出るだろう、とハルガンは首を振った。
‌「わかりました。叔父上、感謝します」
‌ ユルタを出ようとすると、シリン、と呼び止められた。
‌「私にはわからない。狼狩りに挑めば、命さえ落としかねない。たとえそれを乗り越えたとて、戦いは続く。男たちの反応を見ただろう。なぜ、周囲の反感を買ってまでお前が戦わねばならない?」
‌ シリンは振り返り、叔父と向き合った。
‌「あの子供のためか?」
(とび)の鳴く声が、上空から降った。
‌「私が男であれば、族長の座を求める理由など叔父上は問うたでしょうか?」
‌ ハルガンは瞠目し、しかしすぐに答えた。
‌「問わなかっただろう。だがお前は女で、今や兄の遺した一人きりの娘だ」
‌ 私はただ、お前の身を案じているのだ、とハルガンは目を細めた。
‌「お前の行こうとする道の先に、幸福があるとは思えない」
‌ 幸福など、とシリンは笑った。
‌「もはや望んではおりません」
‌ シリンは今度こそユルタを辞した。外にはザナトが待っていたが、足を止めなかった。
‌「俺も親父も止めたぞ」
‌「うん」
‌「どうなっても知らねえからな」
‌「ああ」
‌ おい、とシリンの背に向かってザナトが怒鳴る。
‌「死ぬんじゃねえぞ!」
‌ シリンは立ち止まらずに応えた。
‌「お前もな、ザナト」
‌ 馬鹿野郎、と吼える声が耳の奥に残った。

‌ 結局、シリンとザナトのほかに参加を申し出る者はなかった。ザナトの弟妹たちにも資格はあったが、手は挙がらなかった。賢明な判断と言えるだろう。シリンとザナトは、アルタナでも指折りの狩人と言えるのだから。
‌ しかしシリンも、狼を射たことはない。通常、狼を狩るには複数人で獲物を追い立てる巻狩りと呼ばれる方法がとられる。追われた狼を最後に射止めるのは、いつも兄シドリの役目だった。その役を預かることができるのは、絶対に矢を外さないという信頼を男たちから勝ち得た者だけだった。
‌ だが、狼を射たことがないのはザナトにしたって同じだ。ザナトは武芸に秀でるが、狩りの腕なら自分の方が上だという自負があった。
‌ 狼狩りの前夜、カウラは小さな声で歌い、赤子を寝かし付けていた。シリンの知らない、けれど耳に心地よい歌だった。
‌ 歌を聞きながらシリンは弓の弦を張りなおし、毛皮のブーツに雪が染みないよう脂を塗った。最後に濫で貰った短剣を鞘から抜き、刃を確かめる。研ぐ必要もない、美しい刃だった。
‌ 勝算はあった。
‌ カウラと沢で出会った時に射た狼のことが、頭にあった。あの傷で死ぬことはないだろうが、弱っていることに変わりはない。狩りには難儀することだろう。殺された羊は、あの場に残してきた。新たな獲物を期待できない狼たちは、きっと戻ってくる。あるいはシリンの匂いを覚えていれば、獲物を横取りにきたのだと考えて向こうから襲ってくるかもしれない。彼らはとても執念深く、子や伴侶を殺した人間を追って集落まで姿を現わすこともある。普段は厄介なその性質が、今はシリンの味方だった。そうなってくれれば、狼を探す手間が省ける。体力は当然ザナトの方が上だ。長引けば長引くだけシリンは不利になる。
‌ カウラをじっと見つめると、歌が止んだ。胸に抱いていた赤子を手渡される。ぱっちりと開いた緑の目の中に、険しい顔をした自分がいた。ぎゅっと抱きしめると、緑の瞳は見えなくなった。
‌「この子、名前は?」
‌「まだ付けてない」
‌ そうなの、とカウラは赤子に頬ずりした。
‌「早く名前がもらえるといいわね」
‌ そう言ってカウラは、赤子の額に口付けた。そのまま、ごく自然にシリンの頬にも唇が触れた。
‌ あなたの勝利を祈ってる、というささやきが耳を撫でた。
‌ 鼻の奥が痛んだ。たとえ己の望みのためだろうと、今のアルタナでそれを願ってくれるのは、この娘一人きりだとわかっていた。
‌ 赤子がか細い声で泣き始める。やがてその声は、天幕を揺るがすほどに大きくなった。カウラがシリンの腕から赤子を抱き上げる。
‌「いい子、いい子」
‌ 泣かないで、と言葉は続くものだと思った。けれどカウラは「たくさん、気の済むまで泣くといい」と、そう言った。

‌ シリンは夜明けと共に集落を出た。背には弓矢を負い、腰には短剣を提げた。同じく村を出るザナトと行き合ったが、言葉は交わさなかった。
‌ 供に選んだのは、草原での愛馬ヨクサルと、カウラに借りた黒犬だった。黒犬は、亡くなった祖父から譲り受けた猟犬なのだという。狩猟には長く出ていないらしいが、犬の鼻があるだけでも有難かった。ヨクサルを選んだのは、茜雲が長旅で()(へい)している上、彼女は狼を追ったことがないからだった。馬が(おく)せば、賢い狼にはすぐに悟られる。ヨクサルならば何度も巻き狩りに参加しているし、気性の荒い未去勢の牡馬(アズラガ)だ。狼にも怯えることなく立ち向かう。反面、騎馬には向かないとされるが、シリンはこの馬が気に入って、振り落とされても何度もその背に(またが)った。おかげで今では大人しく鞍に迎え入れてくれる。
‌ カウラと出会った沢まで出ると、シリンは羊の死骸を探した。
‌ 先行する黒犬の尾が、雪原に揺れる。狼やほかの獣が近づけば真っ先に気付くはずだが、今のところのその兆候はない。
‌ 南にしばらく下ったところで、犬が立ち止まって吠え出した。
‌ ヨクサルを黒犬の元へ急がせると、死肉を(ついば)んでいた鷲が(たい)()そうに飛び去った。
‌ はたしてそこに羊の死骸があった。この数日は雪も大風もなかったことが幸いして、雪の下に埋もれてはいなかった。腹は喰い荒らされ変わり果てた姿になっていたが、まだ背の方は喰いでがありそうだった。肥羊とはいかないが、これだけの獲物を安々と手放しはしないだろう。
‌ 狼たちは、きっと戻って来る。
‌ シリンは黒犬を(てい)(さつ)に放し、ヨクサルと共に手近な岩場に身を隠した。じっとしていると、たちまち冷気が体を固くし、足先が凍る。肝心な時に手がかじかんで獲物を仕損じるわけにはいかないので、シリンは手を擦り合わせ、ヨクサルの馬身に体を寄せた。
‌ 時はひどくのろのろと過ぎた。中天に昇った太陽は、いつまでもそこから動かず(ちん)()しているかのようだった。
‌ 待つしかない、一人で山に入ってもうまく逃げられるだけだ。単独で狼を仕留めるなら、逃げ場のない平原で射かけるしかない。
‌ わかっていても、凍るような空気の中でただ待つことは苦痛でしかなかった。
‌ 一日目は何の成果もなく終わった。黒犬も戻ってこない。野営の支度のために立ち上がると、縮こまった節々がぱきりと空しい音を立てた。
‌ 二日目も同じ岩場で待った。
‌ ヨクサルがぶるりと身を震わせる。見れば、黒い鼻先で鼻息が白く凍っていた。
‌「面倒なことに付き合わせて、悪いな」
‌ 薄氷を剥いでやったところで、ヨクサルが耳をぴんとそばだてた。
‌ はっとしてシリンは背中の弓に手をかけた。
‌ かすかに、犬の遠吠えが聞こえた。獲物の発見を報せる声だ。羊の死肉を啄ばんでいた小さな鳥たちが、一斉に飛び立っていく。
‌ やがて沢の上流に、黒点が現れた。三つの点は徐々に大きくなり、獣に姿を変えた。二頭の狼と、カウラの黒犬だ。狼の一頭はひょこひょこと足を引きずっている。あの時の狼に違いない。
‌ 狼たちは犬に追われて小走りにやって来たが、羊の元まで辿り着く前にひたりと足を止めた。黒犬が追い立てるように短く吠えるが、相手にしなかった。
‌ 四つの目が、ふいとシリンのいる岩場に向けられる。とうに匂いでこちらに気付いていたのだろう。引き返すほどに警戒すべき相手なのか、思案しているようだ。
‌ 先に立った狼が、ふ、と回れ右するような動きを見せた。
‌ 行かせないとばかりに、黒犬が地面を蹴る。激しく吠え立てながら狼たちの進路に立ち塞がり、負傷した一頭に飛び掛かった。
‌ いま一頭が、仲間を助けに行くべきか(しゅん)(じゅん)するような仕草を一瞬見せた。しかしくるりと体を反転させたかと思うと、シリンのいる岩場に向かって突っ込んできた。こちらを攻撃すれば黒犬が加勢に来るとわかっているかのような、迷いない疾走だった。
‌ ヨクサルに騎乗する暇もなく、正面から狼を迎え撃つことになった。矢を放ったが、走り抜ける獣身には掠りもせず、雪上に突き刺さった。
‌ 狼は矢にも怯まず突進してくる。その金の目が、雪を反射してぎらりと光った。
‌ だがシリンの目前で狼の体は横に吹っ飛び、雪の上を転がった。ヨクサルの後脚が、狼の横腹を蹴り上げたのだ。
‌ 急いでヨクサルに飛びつき、その背に這い上った。
‌ 狼はすぐに起き上がり、よろめきながらも再び向かってくる。ヨクサルが(いなな)いて威嚇したが、止まらない。狼の脚が雪を蹴り、(ちょう)(やく)した獣身が視界に大きく映った。
‌ 肩口に激痛を覚えた時には、馬上から地面に叩きつけられていた。
‌ 灰色の毛並みと大きく開かれた口、そこに並んだ牙が目前に迫る。きつい獣臭が鼻に流れ込み、吐気を覚えた。
‌ 咄嗟に両腕を交差させて顔と喉を(かば)い、目をつむった。しかし痛みがやってくる前に、狼が高く鳴いた。
‌ 目を開けると、狼の尻に食らいついた黒犬の姿があった。
‌ 狼は唸り声を上げて暴れたが、黒犬の犬歯は肉に食い込んだままだった。二匹はもつれ合い、シリンの体の上から退いた。シリンは雪の上に落ちた弓矢を拾って距離を取り、激痛に顔を(しか)めながらも弓を引き絞った。じくじくと熱を持つ腕が、その時を待つ。
‌ とうとう狼が黒犬を振り払い、その首元めがけて飛び掛かった。
‌ その瞬間を捉え、矢を弾き出した。
‌ ぎゃん、と悲鳴を上げて狼は雪の上に落ちた。矢は腹に深々と突き刺さった。もう起き上がることはないだろう。
‌ ふ、と息を吐いたのも束の間、ヨクサルが嘶くのが耳に入った。
‌ 目を上げれば、もう一頭の脚を負傷していた狼の姿がない。
‌ どこへ、と辺りを見回したその時、強い獣臭が再び鼻をついた。
‌ 振り向きざま、獣の爪が頬の肉を(えぐ)り取る感触があった。狼の爪に、自分の血と肉が詰まっているのが見えた。拾い上げたばかりの弓矢が手から離れ、雪の上に落ちる。
‌ 牙を避け、地面を転がった。
‌ ヨクサルと犬とが走ってくる気配があったが、狼はすでにシリンに馬乗りになり、爪と牙は瞳の前に迫っていた。
‌ 腰から短剣を抜き、無我夢中でその目に向かって振り上げた。身が(すく)むような(ほう)(こう)を、狼が上げる。片目を潰されてなお狼は離れようとせず、(しつ)(よう)に喉元を狙って口を開いた。
‌ シリンは顔の前に刃を構え、限界まで開かれた狼の口内にそれを押し込んだ。牙が手の肉を削いでいったが、柄を放すわけにはいかなかった。
‌「私は死なない」
‌ 狼がごぼりと吐いた血を顔に浴びる。
‌ 死なない、まだ死ねない、と口が勝手に繰り返す。
‌ 狼はなおも手足を振り回し続けていた。シリンは口内から力任せに短剣を引き抜き、首元に突き立てた。
‌「だから頼む、死んでくれ」
‌ ねじるように刃を肉へと押し込むと、狼はやがて静かになり、どうとシリンの上に落ちた。
‌ 狼の体の下から、もがくように()い出る。雪の上に転がったまま、立ち上がることができなかった。自分がまるで獣のように荒い息を吐く音が、耳を(ふさ)いだ。
‌ ヨクサルにべろりと頬を舐められて、ようやく二頭が駆け寄ってきていることに気が付いた。犬と馬の鼻先を、それぞれ撫でてやった。ヨクサルの体につかまり、なんとか立ち上がる。
‌ シリンは狼の肉に食い込んだ短剣を苦労して引き抜くと、沢までよろよろと歩いていき、血まみれの顔と傷口、そして短剣を洗った。水は一瞬だけ赤く染まり、すぐに元の清らかな流れに戻ったが、シリンの鼻孔には血の臭いが残ったままだった。
‌ 出血の続いていた肩と手の傷だけは、ひとまず縛り上げた。
‌ 二頭を一度に仕留めたのだ。勝利は間違いなかった。
‌ けれど心中に(かい)(さい)はなかった。重苦しさと、じくじくとした傷口の痛みだけがあった。
‌ ヨクサルが心配そうに鼻を鳴らす。
‌「大丈夫だ。二人共、本当によくやってくれた。お前たちがいなければ、私は死んでいたな」
‌ よくよく黒犬を見ると、脚を怪我していた。シリンは服の(すそ)を破り、水に(ひた)したそれで巻いてやった。
‌ 残る力を振り絞り、雪原に落ちた狼の死骸を回収した。雄と雌だった。たぶん、夫婦ものだったのだろう。(たま)(しず)めの言葉を口にしようとして、やめた。こちらの勝手な都合で殺したのだ。彼らが荒ぶる魂となって戻ってくるのなら、受け入れるべきだろう。
‌ シリンは狼たちの死骸を(あん)(じょう)に引きずり上げ、最後に黒犬を抱えて自分も騎乗すると、愛馬の背を叩いて言った。
‌「連れ帰ってくれ、アルタナへ。(がい)(せん)だ」
‌ ヨクサルがゆっくりと走り出す。賢い馬は、負傷した主人を振り落とさないよう、けれどできる限り帰路を急いだ。
‌ 祝福されない凱旋だとわかっていた。それでもたった一人、あの娘だけは喜ぶだろう。
‌ 帰ったら、赤子の名前を一緒に考えてくれるだろうかとぼんやり考えた。
‌ 白い平原の中で、思い浮かべたカウラの赤髪と、赤子の緑の目ばかりが鮮やかだった。

‌【おわり】