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‌ そこは牢獄にしてはあまりにも豪奢だった。

‌「まるで皇后の住まいだな」
瑠璃(るり)(がわら)がふかれた絢爛な殿舎(でんしゃ)をふり仰いで、高透(こうとう)()は独り言のようにつぶやいた。
‌ 天を貫かんばかりに反り返った屋根には(ずい)(じゅう)をかたどった()()が君臨し、朱塗りの円柱には黄金の昇り龍がからみついている。
‌ 昇り龍は本来、天子にしか許されない文様だ。その点だけを見ても、この殿舎はここに似つかわしくない。
‌ 後宮の裏門を出たところに位置する冷宮(れいきゅう)
‌ その奥まった殿舎に透雅は来ていた。
‌「昔、ここには()()()が住んでいたんです」
‌ 透雅の隣を歩く角蛮述(かくばんじゅつ)が説明した。
‌ 冷宮に入るには後宮を通る必要がある。むろん、透雅だけでは後宮内を通ることができないので、宦官(かんがん)の蛮述が同行している。
‌「砂鳥姫ああ、()(きょう)(てい)の寵姫だね」
今上(きんじょう)(ほう)()(てい)からさかのぼること五代前の皇帝が至興帝である。父・(すう)(せい)(てい)の曽祖父であり、透雅にとっては高祖父(こうそふ)にあたる。
‌「こなたと同じ異民族出身の方であったな?」
‌ 雨粒を弾く油紙(ゆし)(がさ)の下で、妻の(れい)()(しゅ)が興味深そうに目を丸くした。
‌ これから冷宮に幽閉されている()(そう)(たい)()を訪ねるところだ。
‌ 呉荘太妃は透雅の養母である。
‌ はじめは露珠を連れて行くかどうか迷ったが、彼女が義母に挨拶をしたいと言うので連れてきた。
‌「至興帝を惑わせた悪女ですよ。当時、第二皇子だったのちの(じん)(けい)(てい)を幾度も暗殺しようとした罪で冷宮行きになったんですが、至興帝は砂鳥姫愛しさのあまり、冷宮を皇后の宮殿並みに建て直させたとか。こちらの殿舎はその一部です」
‌「一部? まだ他にもあるのかえ?」
‌「園林や茶寮(さりょう)(しん)(びょう)()(だい)(舞台)などがありますよ。砂鳥姫が死んでからは誰も手入れしていないので、廃墟と化してますけどね」
‌ 蛮述に案内されて回廊を渡り、母屋に入る。客間に通されてしばらくすると、呉荘太妃が現れた。
‌「雨の中、こんなところまでよく来たわね」
‌ 呉荘太妃はにこやかに息子夫婦を出迎えた。御年四十六。大輪の牡丹を思わせる容色は、若かりし頃の面影を存分に残している。
‌ 傍らにいるのは呉荘太妃付き主席宦官の()(えい)だ。宦官には年齢不詳の者が多いが、士影もその一人である。四十はとうに過ぎているはずだが、静けさをまとった容貌は生来の端麗さを失っていない。
‌「呉荘太妃さまに拝謁いたします」
‌「やあね、やめてちょうだい」
‌ 露珠がひざまずいて拝礼しようとすると、呉荘太妃は朗らかに笑って止めた。
‌「ここでは面倒な挨拶はなしよ。さあ、こちらへいらっしゃい。茶菓を用意しているわ」
‌ 呉荘太妃に勧められて長椅子に腰かけ、茶菓を馳走になりながら、たわいない話をした。
‌ 呉荘太妃は露珠をいたく気に入っている。透雅に優しくされているか、何か困ったことはないかと、彼女を気遣った。
‌「義母上こそ、不自由なさっていることはございませぬかえ? もし、何かおありなら、おっしゃってくださいませ。こなたにできることなら、何でもいたしますゆえ」
‌「ありがとう。でも、不自由していることはないわ。必要なものは何もかも太上(たいじょう)(こう)さまが用意してくださったから、後宮にいた頃と変わらない暮らしよ」
‌ 呉荘太妃が和やかに微笑む。露珠は何かを言おうとしたが、微笑みでごまかした。
‌「実は義母上のために菊を育てているのです。次にご挨拶にうかがうときには、お持ちいたします」
‌「あなたが育てた菊はとても美しいのでしょうね。楽しみにしているわ」


‌ 話の種も尽きた頃。
‌「義母上と話したいことがあるんだ。すまないが、君は席を外してくれ」
‌ 露珠は物言いたげに透雅を見たが、蛮述の部下に連れられて冷宮を出ていった。
‌ 客間に残されたのは、透雅と呉荘太妃、それから士影だ。
‌「父上からうかがいました」
‌ 透雅ははす向かいに座る義母を見やった。
‌「()()をお受けになるそうですね」
‌ 太上皇と今上帝が弑逆(しいぎゃく)されかける前代未聞の大事件断腸(だんちょう)(あん)は呉家の族滅(ぞくめつ)という結果を生んだ。
‌ 成人男子はむろん極刑だが、事件の大きさゆえに、今回は成年に達しない男子や婦女子も刑場に引っ立てられる恐れがある。
‌ 呉荘太妃は皇子の養母として死罪を免ぜられ、幽閉となるはずだったが、父帝は呉荘太妃に死を賜うと言った。
‌『余が呉荘太妃をそばに置いたことも、呉家の増長を許した原因のひとつだ。呉一族が根絶やしにされるというのに、呉荘太妃だけを特別扱いするわけにはいかない』
‌ 長年の夫婦の情に免じて、恩情を賜ることはできないかと透雅が懇願すると、父帝は不思議そうに息子を見返した。
‌『おまえは呉荘太妃を嫌っていたはずだが。なにゆえ、養母の命乞いをする?』
‌ 透雅は返答に窮した。
‌ 自分でも、なぜ養母の命乞いをしているのか分からなかった。
‌ 透雅は呉荘太妃と疎遠だった。意図して距離を置いてきたし、型通りの挨拶も単なる義務感でこなしていたにすぎない。
‌ 養母というだけで、そこに特別な親愛の情はないはずだった。
‌ 血縁もなく、親情もない相手だ。どんな悲惨な末路を迎えようとも、自分に火の粉さえ飛んでこなければ、知ったことではないはずではないか。
‌ それなのになぜか、呉荘太妃が死を賜ると聞いてうろたえた。あまりに残酷すぎるのではと、父帝に詰め寄った。
‌ どういう理屈でそんなことをしているのか、自分自身にも理解できないまま。
‌「呉家は決して許されない罪を犯したんだもの。当然の結果だわ」
‌ 呉荘太妃は静かな微笑みをたたえて答えた。
‌「ですが、何も義母上まで死を賜ることはないのでは。生涯、幽閉でも問題ないはずです。呉家の陰謀に義母上がかかわっていた証拠はないのですから」
‌「確かにわたくしは今回の陰謀に手を貸してはいない。高帝(こうてい)(びょう)の騒動は寝耳に水だったわ。太上皇さまと主上(しゅじょう)が相次いで毒でお倒れになったと聞いて、目の前が真っ暗になった。なれど、妙に得心がいった面もあるの」
‌「得心がいく、とは?」
‌「お父さまの言動についてよ。そういえばあんなことを言っていたとか、あの行動の意味はこうだったのねとか思い返せば、謀略に思い当たるふしがあったわ。お父さまの野心はいまだついえていなかった。そんなことは百も承知だったのに、わたくしは陰謀の芽を見逃してしまった」
‌「それは義母上の罪ではないでしょう」
‌「いいえ、わたくしの罪よ」
‌ 呉荘太妃はゆるりと首を横にふった。
‌「あなたには話したことがなかったわね。実は、わたくしは太上皇さまの手駒だったのよ」
‌「手駒?」
‌「密偵といったほうが正しいかしら。わたくしは太上皇さまのために秘密裏に働くこととひきかえに、妃嬪(ひひん)に立てていただいたの」
‌ 呉荘太妃はひそかに呉家の動向を探り、逐一、父帝に密告していた。
‌ 場合によっては父帝の意向を受けて呉家に働きかけることもあり、危険な橋を渡ることも少なくなかったという。
‌「父上は呉家の顔を立てるために義母上を寵愛なさったのでは
‌「わたくしは太上皇さまに寵愛されたことはないわ。手足として使っていただいただけ」
‌「分かりません。なぜそのようなことをなさったのです?」
‌ 透雅は困惑していた。父帝と養母が健全な夫婦ではないことは知っていた。ふたりは互いに愛し合ってなどいなかった。夫婦を演じていただけだ。
‌ しかしそれは、呉家の顔を立てるための芝居だと思っていた。
‌ 皇帝が后妃(こうひ)の実家の顔色をうかがうのは当たり前のことだ。後宮と(がい)(ちょう)は表裏一体。両者の均衡を保つことができる皇帝こそが、明君と呼ばれるに値する。
‌ その点、父帝は賢帝の誉れに恥じぬ英邁な天子だった。その治世を通して、あえて皇后を立てなかったのも、寵愛する李氏のため以上に、外戚(がいせき)の専横を抑えるためだった。
‌ 透雅の祖父である(こう)(じゅん)(てい)は最愛の(えい)皇后(こうごう)を慈しむあまり、栄家に権力を与えすぎた。一時期、朝廷は栄一族の独壇場であり、父帝の命運さえ、栄家の手中に握られているといっても過言ではなかった。
‌ だからこそ、父帝は皇后を置かなかったのだ。李氏を寵愛しても、李家に過分な特権は与えなかった。他の妃嬪に対しては、状況に応じて寵愛を与えたり、取り上げたりした。外朝と後宮で力のつり合いが取れるよう、常に気を配っていた。
‌ 呉家は栄家の対抗馬だった。それゆえに、父帝は呉荘太妃をそばに置いたのだと思っていた。栄家亡き後は、呉家と(いん)家の均衡を保つために、呉荘太妃に目をかけているのだと考えていた。
‌ まさか、それ以外の理由があるとは思いもしなかった。しかもそれが、呉荘太妃を手駒としていたからだとは。
‌「入宮したばかりの頃、わたくしは罪を犯したの」
‌ 呉荘太妃はゆるゆると立ちのぼる香炉の煙を見ていた。
‌「あなたも知っての通り、密通の罪よ」
‌ 不義の相手が士影であることは、透雅も承知している。
‌ 士影は呉家の使用人だった。娘時代の呉氏は彼に恋をし、士影もまた、呉家の令嬢に恋をした。身分違いの恋であり、永久に叶わぬ恋であった。なぜなら、呉氏はいずれ後宮に入ることが決まっていたからだ。
‌ 惹かれ合うふたりは引き裂かれ、呉氏は崇成帝の()(しょう)として後宮入りした。
‌ しかし、生き別れではなかった。士影は浄身(じょうしん)(去勢)して宦官となり、後宮に入っていたからだ。
‌ ふたりは天子の花園で再会を果たす。なぜこんなところにいるのかと問う呉氏に、士影はあなたのそばで生きるため、男の体を捨てたのだと語ったという。
‌ ふたりは幾度も逢瀬を重ねた。やがて秘密の恋は父帝の知るところなる。皇后候補として鳴り物入りで入宮した呉家令嬢の私通。事が公になれば、朝廷は嵐に見舞われる。
‌ 当時はまだ栄家が健在だった。呉氏の不義密通をあばいて呉家を裁けば、栄家がますます勢いづくことになる。
‌ 父帝は頭を悩ませ、呉氏の不義を伏せておくことにした。呉家の内情を探る手駒として、呉氏を使う代わりに。
‌「わたくしは一度も身籠ったことがない。これは偶然ではないの」
‌「子を孕まぬように薬を?」
‌「違うわ。わたくしは宮刑(きゅうけい)を受けて身籠らない体になったのよ」
‌ 宮刑という言葉に心臓が止まる。
‌ 皇宮で不義密通を働いた男女は宮刑に処されるのが決まりだ。
‌ 男性の場合は浄身させられて宦官になる。女性の場合は劇毒を飲んで子を孕む道を閉ざす。いずれも死の危険を伴う重罰だ。
‌「しかし、そんな記録はないはずです」
‌「もちろん、記録にはないわ。何もかも秘密裏に行われたことよ。太上皇さまはその頃は主上であらせられたわね。入宮してしばらく経っても、主上は呉家出身のわたくしに()(しん)(夜伽)をお命じにならなかった。わたくしに皇子を産ませることをためらっていらっしゃったのよ。わたくしが皇子を産めば、呉家はいっそう力を誇示するようになるから」
‌ 呉荘太妃は他人事のように淡々と語った。
‌「呉家に力を持たせぬため、宮刑を受けよと、父上がお命じになったのですか?」
‌「わたくしから申し出たことよ。決して主上に強制されたことではないの。わたくしが自ら望んだこと」
‌「なぜそんなことを望まれたのです?」
‌ 後宮に入った美姫たちは誰もが皇子を産むことを願う。それは彼女たちを送り出した実家の悲願であり、彼女たち自身の豊かな未来を約束してくれるものだからだ。
‌「生きるためよ。士影とともに、後宮で」
‌ 呉荘太妃は士影を見やった。
‌「何もしなければ、主上は士影に死をお命じになっていたでしょう。口封じのためにね」
‌ 呉氏の不義を伏せるだけなら、士影を生かしておく必要はない。
‌ むしろ、生かしておく理由がない。
‌ 栄家が士影を捕らえて密通を証言させれば、いかな皇帝といえども、呉氏を呉家を擁護できなくなる。
‌「士影の命を救ってくださるなら、わたくしは宮刑を受けて身籠らない体になると申し出たの。身籠りさえしなければ、わたくしは主上にとって使い勝手のいい手駒になるはず。そう取引を持ちかけたのよ」
‌「士影を助けるために女人として生きる道を諦めたとおっしゃるのですか」
‌ あまりに酷なことだ。子を宿すことを端から諦めるということは、婦人にとって、死の宣告にも等しいはず。いくら恋人を助けるためだとしても、大きすぎる代償だ。
‌「いいえ。わたくしが捨てたのは子を育む器としての体だけ。女人として生きる道は諦めていないわ」
‌ 呉荘太妃は愛しげに士影と視線をかわした。たおやかな白い顔は乙女のような瑞々しい明るさを今もなおとどめている。
‌「子を孕むことができなくなっても、士影の前では、わたくしは女人のままよ。少なくとも、士影はそう言ってくれるの。わたくしを女人として愛していると。士影の目に女のわたくしが映るのなら、この体が子を育む器になるのかどうかなんて、どうでもいいわ」
‌ 士影は何も言わなかったが、呉荘太妃を見つめる愛おしげな眼差しが存分に彼の心情を物語っている。
‌「女の幸せは子を産むことだと言う人がいる。それは違うと、誰かの幸福の形を否定するつもりはないわ。子を産むことも、女の幸せのひとつでしょう。だけど、わたくしにとっては違うの。わたくしにとっての幸せは、愛する人のそばにいること。たとえどんな形であっても、心に決めた人と添い遂げることこそが、わたくしの幸福なのよ」
‌ しばし、透雅は沈黙した。何も言えなかったのだ。当惑が喉をつまらせていて。
‌ 士影は男の体を持たず、呉荘太妃は女の体を持たない。世間の常識に照らし合わせれば、ふたりは夫婦足りえないはずだ。
‌ けれどもなぜか、ふたりを包む空気は長年連れ添った夫婦のそれだった。
‌「わたくしを哀れんでいるのなら、やめてちょうだい。侮辱されている気分になるから」
‌ 呉荘太妃は笑顔を絶やさぬまま、透雅を見すえた。
‌「義母上を侮辱するつもりなど、毛頭ございません。ただ、どのような事情があれ、宮刑をお受けになったことは、とてもおつらい経験だっただろうと」
‌「つらい経験は誰もが味わうものよ。わたくしだけが特別、不幸だったわけではない」
‌ かすかな溜息が静かな室内に落ちる。
‌「わたくしは子を育む体を捨てたけれど、矜持を捨てた覚えはないの。自分で選んだ人生よ。誰からの憐憫も受けないわ。義理の息子であるあなたにも、わたくしの生き方を否定させはしない」
‌「後悔はなさっていないのですね」
‌「するはずないでしょう。密通が発覚した時点で、士影は宦官になっていた。あのときのわたくしと士影が駆け落ちして夫婦になったところで、わたくしは士影の子を身籠ることはできなかった。子を育む器だけあっても、何の役にも立たなかったのよ」
‌ 昔日を懐かしんでいるかのように、呉荘太妃は燭台の明かりを見ていた。
‌「それだけじゃない。宦官は外の世界では生きていけないわ。世間の人たちが宦官を騾馬(らば)と呼んで蔑んでいることを知っているでしょう? 運よく皇宮の外で士影と夫婦になることができたとしても、士影は一生、宦官であることを隠し続けなければならない。もし、浄身していることを誰かに知られたら、その土地にはいられなくなる。さもないと、世間の人たちが士影に何をするか分からないから」
‌ 皇宮の内でも外でも、宦官は忌み嫌われる存在だ。彼らは常に人ならざる者として侮蔑され、憎悪されている。
‌ それでも権力や財力を誇っているうちは誰もが進んで媚びを売るが、ひとたび力を失えば、ここぞとばかりに悪罵され、敵意を向けられ、ひどい場合は暴力をふるわれ、命を奪われることさえある。
‌ 歴代の悪逆な宦官たちが傍若無人なふるまいで民を苦しめてきたことも事実だから、世人が宦官に敵愾心を燃やすのはやむを得ないことだが、宦官にとって、皇宮の外の世界は生き地獄だ。
‌ ましてや、地位も財産もない下級宦官が妻とひっそり暮らそうとするならば、常に危険と隣り合わせの安らぎのない暮らしになるだろう。
‌「わたくしたちの居場所は後宮にしかなかった。城門の向こうには、わたくしたちを迎えてくれる場所なんて存在しなかったのよ。だから、後宮で生きていくしかなかった」
‌「そのために宮刑をお受けになったんですね」
‌「呉家の令嬢でありながら、決して子を孕むことのないわたくしは、主上にとって使い勝手のいい手駒になる。呉家の内情を探り、主上の意のままに動く代わりに、わたくしと士影の仲を黙認してくださるよう、頼んだのよ」
‌ 何もかもに合点がいった。
‌(父上らしい)
‌ 父帝は情に流される人物ではない。呉荘太妃と士影の不貞も、単に関心がないから放置していたのではなく、利があったから、あえて黙認していたのだ。
‌ 冷徹な君王たる父帝らしい措置だと、心の底から納得した。
‌「伏してお詫び申し上げます、義母上」
‌ 透雅は席を立ってひざまずいた。恥じ入る気持ちが喉元までこみ上げてきて、かすかに言葉が震える。
‌「義母上がそこまで御覚悟をなさって後宮で生き抜いていらっしゃったとも存じ上げず、親不孝にも、義母上を恨んでいました」
‌ 自分が父帝に愛されないのは、養母である呉荘太妃が寵愛されていないからだと思っていた。自分は父帝の関心を得ようとして躍起になっているのに、当の呉荘太妃が父帝に愛されないことをまったく苦にしていないのが、むしょうに恨めしかった。
‌ 自分だけ取り残された気分だった。養母にさえ、共感してもらえないのかと、失望に身を任せていた。呉荘太妃を恨み、士影を蔑んだ。自分は親族に恵まれないのだと、己が不遇に溺れていた。
‌『つらい経験は誰もが味わうものよ。わたくしだけが特別、不幸だったわけではない』
‌ ついさっき聞いた養母の言葉を反芻する。
‌ 呉荘太妃は何の苦労もなく恋人とのひそかな逢瀬を楽しんでいたわけではなかった。
‌彼女は大きな代償を支払い、敵の多い宮中で知恵をしぼりながら生きのびてきたのだ。緊張に張りつめた日常の中、士影の存在がどれほど彼女の支えになっていたか、養母本人から聞かなくても察しがつく。
‌ なぜなら透雅も愛する人を得たからだ。
‌(もし、露珠と生きるためには男として生きる道を捨てるしかない状況に陥ったら、俺も義母上と同じ道を選ぶだろう)
‌ きっと迷いはしない。進んで苦難の道を歩むはずだ。愛する人と過ごす日々は、あらゆる苦しみに勝るものだから。
‌「立ちなさい」
‌ 呉荘太妃は透雅の手を取って、立ち上がらせた。久方ぶりに触れる養母の手は、少しひんやりとしていた。
‌(あの頃と変わらないな)
‌まだ童子だった頃のことだ。透雅は風邪をこじらせて寝込んだ。高熱を出し、体中が小刻みに震えて、意識がもうろうとしていた。
‌苦しかった。心細かった。恐ろしかった。このまま死ぬのだろうかと怯えていた。
‌『大丈夫よ。じきによくなるわ』
‌ 透雅のひたいに何かひんやりとしたものがのせられた。それが養母の手だと気づくのに、さして時間はかからなかった。
‌『安心しておやすみなさい。わたくしはずっとそばにいるから』
‌ まるでそれ自体が薬であるかのように、養母の手の冷たさはひどく心地よかった。
‌ 翌朝、目を覚ますと、傍らには呉氏の姿があった。彼女は透雅の枕辺で眠りこんでいた。
‌『だいぶ熱は下がったようね』
‌ 目覚めた呉氏は透雅のひたいに手をあてて微笑んだ。
‌『つらかったでしょうに、頑張ったわね、透雅。一晩でこんなによくなるなんて、あなたは強い子だわ』
‌ 呉氏が優しく背中をさすってくれた瞬間、幼き日の透雅は堪え切れずに泣きだしてしまった。再び養母の腕に抱かれたことで、ひどく安堵したのだ。もう二度と、呉氏には会えないかもしれないと思っていたから。
‌『あらあら、泣かないでちょうだい』
‌ 呉氏は泣きじゃくる透雅を抱きしめた。
‌『もう病は消えてしまったわ。安心していいのよ』
‌ やわらかなぬくもりに包まれ、心の底から安堵したことを、今でも覚えている。
‌(義母上は確かに俺を愛してくださっていた)
‌ 血のつながりもなく、愛する男の子でもないのに、呉氏は我が子のように透雅を慈しんでくれた。
‌ 養母の情愛を知らなかったわけはないのに、なぜ今日までこれほど意固地になって、呉氏から距離を置いていたのだろう。
‌(もしかしたら、嫉妬していたのかもしれない)
‌ 呉氏の秘密の恋を知ったとき、透雅は十にも満たぬ子どもだった。まだまだ母が恋しい盛りだ。ましてや、父帝は透雅に無関心だったから、呉氏だけが透雅にあたたかい眼差しを向けてくれる存在だった。
‌ 自分ひとりのものとばかり思っていた養母が、士影と恋仲だと知って衝撃を受けた。たったひとりの母を士影に奪われたようで、苛立っていたのだ。
‌ そのことに気づいたとたん、胸の中のわだかまりがするするとほどけていった。
‌ 今や、透雅は母を恋しがる少年ではない。すでに一人前の男になり、愛する妻を得た。だからこそ、呉氏の胸中を察することができる。
‌(士影は義母上のために男の体を捨て、義母上は士影のために女の体を捨てた)
‌ それだけでも、ふたりが互いをどれほど愛しているか、分かるというものだ。
‌ 男として、女として、世間一般の幸せを得るよりも、ふたり寄り添って生きる道を選んだ。それを愚かと切って捨てる人がいるのなら、その人は命を燃やす恋をしたことがないのだろう。
‌ 骨を断つほどの代償を支払っても、誰かを愛し抜きたいと願う。そんな恋に出会えないことこそが、この世の不幸だ。
‌「謝りたいのはわたくしのほうよ」
‌ 呉荘太妃は涙まじりに言った。
‌「もっと早く本当のことをあなたに話すべきだったわ。そうすればこんなに長く仲違いすることはなかったかもしれないのに」
‌ 呉氏と距離を置くようになってから、十年以上経つ。
‌ 失った母子の時間はもう戻ってこない。その事実に臍を噛みつつも、今こうして養母の手を取ることができたことに胸が熱くなる。
‌「もう一度、賜死の件をご再考いただきますよう、父上にお願いいたします」
‌ 再び「なぜ呉荘太妃の命乞いをするのか」と父帝に問われたら、はっきりと答えられる。
‌ 呉荘太妃が透雅の母だからだ。血縁はなくとも、母子の絆があった。呉家の野望がどうであれ、彼女は確かに透雅の母だった。
‌ 不孝にも養母の真意をくみとれず、彼女の胸中を察することもせずに背を向けながらも、呉氏の息子として、彼女の命を惜しまずにはいられなかった。
‌ 何も不審がる必要はなかったのだ。子が母に生きながらえてほしいと願うのは、ごくごく自然なことなのだから。
‌「あなたの気持ちは嬉しいけれど、賜死には従うつもりよ」
‌「なぜですか?」
‌ 透雅は呉荘太妃に詰め寄った。母の静かすぎる微笑に寒気がしたのだ。彼女はとっくに死を覚悟しているようで。
‌「ひとつはやはり、けじめをつけるため。わたくしは主上の手駒でありながら、呉家の反逆の芽を見逃した。期待された務めを果たせなかったということだわ」
‌「ですが、それは
‌「主上は約定通りにわたくしたちの仲を黙認してくださった。それなのに、わたくしは務めを果たせず、約束を違えてしまった。己が不始末の責任を取らなければならないわ」
‌「呉家の陰謀は東廠(とうしょう)でさえ見過ごしてしまったんですよ。義母上がいくら呉家出身だとしても、見抜けたとは思えない」
‌ 断腸の案を未然に防げなかった罪で、東廠の幹部数名が処分された。あらゆる場所に密偵を忍びこませている東廠ですら、陰謀の芽を見落とした。それほど周到に用意された謀略だったのだ。呉荘太妃が呉家の謀を防ぐことは不可能だったはず。
‌「わたくしひとりでどうにかできたと見栄を張るつもりはないわ。でも、結果は結果よ。呉一族は歴史に汚点を残した。その報いとして、呉家は族滅される。まったく無関係だった呉(れい)()だって死を賜るのよ。わたくしだけがのうのうと生きのびられるはずはないわ」
‌ 呉麗妃は透雅の異母兄、(ほう)()(てい)の妃嬪である。呉荘太妃の異母妹にあたる。
‌ 彼女も呉一族の大逆に連座して、死を賜ることが決まっている。
‌「では、呉麗妃さまにも御恩情をかけてくださるよう、主上にお願いいたします」
‌「おやめなさい、透雅」
‌ 呉荘太妃は踵を返そうとした透雅の袖をつかんだ。
‌「わたくしの賜死について、太上皇さまに御恩情を乞うのはやめなさい」
‌「このまま何もしなければ、義母上は
‌「何をしても同じよ。大逆には厳罰が下される。たとえ自分自身にはかかわりのない罪であろうと、一族から大罪人が出れば自分も罪人になる。それがこの国の法よ」
‌「しかし、義母上は長年、父上に尽くしていらっしゃったではないですか。その旧情に免じて、減刑してくださってもいいはずだ」
‌「情の問題ではないのよ。太上皇さまと主上が同時に弑されようとした、前代未聞の事件よ。情け容赦なく処罰しなければ、国内外に示しがつかないわ」
‌ 言い返そうとした言葉が喉につまる。
‌ 断腸の案は宗室の威信を大いに傷つけた。太上皇と皇帝をまとめて弑逆しようとする企てが危うく成功しかけた事実は、ふたりの天子を弑すという万死に値する大罪が実現可能であることを示したのだ。
‌ 第二、第三の宝倫(ほうりん)大長(だいちょう)(こう)(しゅ)や呉鋭桑が出てくることを防ぐためにも、酷烈な天誅を下さなければならない。
‌ さもなければ、遠くない未来に同じような陰謀劇が繰り返されるだろう。
‌ そのときは恐るべき謀略が成功してしまうかもしれない。もし、悪しき勢力が野望を実現してしまえば、この国はもはや高家のものではなくなってしまう。
‌「呉一族の処断について、太上皇さまは慈悲をお示しにはならないわ。あなたがわたくしのために何度も慈悲を乞えば、かえってご不興を買うことになる。事件解決に協力したから連座を免れたのに、あなたまで処罰の対象になってしまうかもしれない。宮中で生き抜くには、保身の術を身につけることも大切よ。逆鱗に触れないよう、この件からは身を引きなさい」
‌「義母上を見殺しにはできません。高官たちに働きかけて、祖父上と祖母上にも相談してみます。おふたりなら、父上を説得してくださるかもしれない。万一、それでも望みがなければ、義母上を秘密裏に皇宮から連れ出しましょう。表向きは死を賜ったことにして、どこか安全な場所で余生をお過ごしください」
‌ ようやく取り戻した母を、いわれのない罪で喪いたくない。
‌ 養母には生きていてほしい。まだまだ息子として孝行し足りないのだ。親不孝なまま、別れたくない。父帝に逆らうことになっても、母を助けたい。
‌「わたくしを逃亡させたりしたら、あなたまで罪人になってしまうわよ」
‌「かまいません。義母上の命を助けるためなら、どんなことでも
‌「ばかなことを言わないで」
‌ 呉荘太妃はぴしゃりと言い放った。
‌「あなたはもう気楽な独り身ではない。妻がいるのよ。あなたが罪人になれば、戻妃だって、無事ではいられないわ。自分のことだけ考えないで。家族を守ることを優先なさい」
‌ 返答に窮してしまい、透雅は養母の手を握りかえした。
‌「義母上も家族です」
‌ どうしてもっと早く気づかなかったのだろうか。
‌ こんなにも近くにいたのに。会おうと思えば、いつだって会うことができたのに。胸襟を開いて語り合うことだって、できたはずなのに。悔悟の念は尽きず、焦燥ばかりが募っていく。
‌「もちろん、わたくしたちは家族よ。疎遠だった頃も、わたくしはずっとあなたの母だったわ」
‌「ならばどうか、賜死を受けるなどとはおっしゃらないでください。生き残る道はなんとか見つけますから、なにとぞ
‌「ありがとう」
‌ 呉荘太妃はやんわりと微笑んだ。優しげな目尻に涙がにじむ。
‌「あなたがわたくしを大事に思ってくれる気持ちで、胸がいっぱいよ。だけど、もう、決めたことなの」
‌「義母上
‌ 言いたいことは山ほどあるはずなのに、何も言葉にならない。
‌「どうか、気に病まないでちょうだい。これは不幸なことではないの」
‌「いわれのない罪で死を賜ることのどこが、不幸ではないとおっしゃるのです」
‌「罪人として死ぬことができるからよ。太妃として死ねば、わたくしは太上皇さまの御陵(ごりょう)(ばい)(そう)されることになる。士影とは決して同じ(せき)(しつ)には入れないわ。けれど、罪人として死ねば、遺体は火葬され、遺灰は大河に流される。刑死すれば、わたくしは士影とひとつになれるのよ」
‌ 后妃は夫である皇帝の陵墓に陪葬される。宦官などの使用人も殉葬(じゅんそう)されることがあるが、言うまでもなく、石室は別々だ。
‌「呉荘太妃さまが薨去(こうきょ)なさったら、時を置かずしておともするつもりでいます」
‌ これまで沈黙をまとっていた士影がそっと口を開いた。
‌ かねてから口数の少ない宦官だった。饒舌に話すのは呉氏とふたりきりのときだけだ。
‌「しかし君は、罪人ではないだろう」
‌「いいえ、罪人です。再三に渡り、呉荘太妃さまの助命を嘆願したところ、太上皇さまの逆鱗に触れてしまいました」
‌ 父帝は士影にも死を賜うと言ったという。
‌「同時にこうもおっしゃいました。最期の日まで、呉荘太妃さまにお仕えせよと」
‌ 父帝が真実、激昂していたら、士影はその場で斬って捨てられていただろう。皇宮において、宦官の命は塵芥に等しい。彼らは人の姿をしていながら、人間扱いされないのが通例だ。宦官を惨たらしく殺して残虐と非難された皇帝はいない。
‌ ゆえに、父帝は士影に激昂して賜死を言い渡したのではない。身分や立場を越えてひとりの女人を愛し抜いた士影に恩情をほどこしたのだ。
‌ それは文字通り君王の慈悲なのかもしれないし、同じくひとりの女人を愛し続けている父帝が士影に共鳴した結果なのかもしれなかった。
‌「本当にいいのかい?」
‌ 愚問だと思いつつも、気づけば尋ねていた。
‌「呉荘太妃さまのおそばにいられるなら、どこへでもまいります。たとえそれが(きゅう)(せん)であろうとも」
‌ 迷いのない士影の瞳には呉荘太妃しか映っていない。
‌ 彼は呉荘太妃のために生きてきたのだ。死ぬのもまた、彼女のためであろう。
‌(不義密通などではなかったんだ)
‌ ふたりの関係を知ってしまった少年時代、幼い正義感から怒りに燃えた。養母も士影も汚らわしく思えた。ふたりは人の道を踏み外した罪人だと心の中で糾弾した。
‌ それがいかに見当違いな非難であったか、今なら分かる。
‌ 呉氏と士影は浮ついた気持ちで結ばれているのではない。互いが互いの片割れであるかのように、確かな絆で結ばれているのだ。
‌ 夫婦でなくても、子がいなくても、ふたりは一対の男女だ。何があろうと決して離れられない。今生でも、来世でも、ふたりの魂は強く惹かれ合い、結ばれずにはいられないのだ。
‌ それほどに深く情を通わせることが大罪だというなら、無辜とは非情と同義であろう。
‌「わたくしはひとりで逝くのではないの」
‌ 呉荘太妃が透雅の手をそっと握った。
‌「愛する人と旅立つのよ。だから、不幸ではないわ。できればあなたにも哀れんでほしくない。憐憫の情はいらないの。ただ見送ってほしいのよ。わたくしたちが快く旅立てるように」
‌ 握られた手のぬくもりにあらゆる感情をかき乱され、透雅は目を閉じた。
‌ 長すぎる誤解の果てにやっと取り戻した母。これから孝行していくつもりでいたのに、母はじきに遠く離れた九泉へ旅立ってしまう。
‌ 引き止めたい。何としてでも、どんな犠牲を支払っても、この世に留まってほしい。
‌ しかし、当の母がそれを望まない。
‌ ならば、透雅が進むべき道はひとつだ。
‌「衷心より祈念申し上げます」
‌ 透雅は衣の裾を払って、再びその場にひざまずいた。
‌「おふたりの来世が喜びに満ちたものでありますよう」
‌ 今生では夫婦になれなかった士影と呉氏。どうか来世ではみなに祝福される形で結ばれるように、心から祈りたい。
‌「そしてできれば、おふたりの子として、相まみえることが叶いますように」
‌ 生まれ変わるなら、何かとしがらみの多い宗室ではなく、市井に生まれたい。
‌ 互いを深く愛し合う夫婦の間に、彼らの子として生まれることができたなら、今生で果たせなかった親孝行を存分に果たすことができるだろう。
‌「待っているわ」
‌ 呉荘太妃は涙を拭うこともせずに透雅の手を取り、立ち上がらせた。
‌「来世であなたがわたくしたちの子として生まれてきてくれるのを待つわ」
‌ 返事をする代わりに、透雅は震える母の手をしっかりと握った。
‌「でも、急がなくていいわよ。ゆっくりでいいわ。あなたにはまだ今生がある。戻妃と天寿をまっとうしてからそうね、百年後にいらっしゃい」
‌「あと百年も生きられませんよ」
‌ 透雅は思わず笑った。養母の前で笑うのは、おそらく子ども時分以来だ。
‌「じゃあ、八十年でいいわ。戻妃とふたり、仲良く長生きするのよ」
‌ 死刑は秋分以降に執行される。呉家の族滅もまだ始まってはいないから、呉荘太妃の賜死は今年の晩秋から冬になるものと思われる。
‌ 残された時間はあとわずかだ。
‌ 悔いを残さないことは不可能だとしても、できる限り、少なくしたいと思う。来世で二人に再会するとき、今生のわだかまりまで持っていきたくはない。
‌「すっかり話しこんでしまったわね」
‌ 呉荘太妃は部屋の外まで透雅を見送りに出てくれた。
‌ 涙雨がしとしとと地面を濡らしている。内院(なかにわ)の花たちは物憂げにうなだれていた。
‌「近いうちにまたまいります。露珠が育てた菊をお届けに」
‌ 露珠には透雅から養母の決心を伝えることになるだろう。彼女はきっと我が事のように悲しむが、理解してくれるはずだ。
‌「戻妃を大切になさい。これから先、何が起こっても、あなたが真っ先に考えるべきは彼女のことよ。他の誰のことでもないわ」
‌「はい。生涯、露珠を守ります」
‌ 別れ際、透雅は呉荘太妃を抱きしめた。
‌ 子どもの頃はあんなにも大きく感じられた母が、透雅の腕の中にすっぽりとおさまってしまう。
‌ 過ぎ去った光陰を惜しみつつ、心に刻みつけるように母子の抱擁をかわす。
‌「義母上、先ほどは子を育む器を捨てたとおっしゃいましたが、それは間違いですよ」
‌ 抱きしめているのは自分なのに、母のぬくもりに抱かれているような気がした。
‌「あなたは俺を育んでくださったんですから」

‌【おわり】